イブン・アラビーおよびイブン・アラビー学派

提供: CDSIA
移動先: 案内検索

東長 靖

1.イブン・アラビー

(1)イブン・アラビーについて

この文献目録は、イブン・アラビー学派の時代的・地域的展開を辿ることをひとつの目的として編まれた。ここでまずは、イブン・アラビーなる人のことを語っておかねばならないだろう。彼はイスラーム思想史上、一級の神秘家である。1165年にスペインのムルシアMurciaに生まれ、幼時よりスーフィズムに目覚め、その後東へ東へと旅を続けながら、教えを説き続けた。チュニジアを経て、メッカ、マラティヤ、モスル、トルコ、エジプト、バグダードなどを旅し、最後はシリアのダマスクスに定住し、同地に没した。その生涯に、700以上もの著作を遺した多作家でもあった[1]。主著は、『マッカ啓示』(al-Futūḥāt al-Makkīya)、『叡智の台座』(Fuṣūṣ al-ḥikam)などであり、後者には100以上もの注釈がつけられた。彼の著書がいかに広くイスラーム世界で受け入れられたかを示す好例であろう。

彼の思想は、存在一性論(waḥda al-wujūd)という存在論と、完全人間論(insān kāmil)および聖者の封印論(khatm al-awliyā’)という人間論にまとめて説明することができる。存在一性論というのは、この世界のありとあらゆるものが、「存在」(ウジュードwujūd)という絶対者の自己顕現(タジャッリー tajallī)によって成立しているとする見方である。この思想を彼が説いたことに疑いはないが、今日私たちが知っているような形に整理されるのは後のことで、第一、「存在一性論」という用語自体、彼自身は使用していなかった。今我々が知る整理は、彼の魁偉な神秘思想を弟子たちが、多分に哲学的にまとめ直したものである。

他方、完全人間論というのは、修行が完成し、世界の神秘を知り尽くした人のことであるが、それはただ単に理想の人間像というのではなくして、存在論的な意味合いを持っているところに特徴がある。すなわち、彼はアッラーと被造世界との間のリンクであり、アッラーの似姿であると同時に、宇宙と照応するミクロコスモスでもある。アッラーと完全人間と宇宙全体が呼応しあうところに、イブン・アラビーの雄大な宇宙観が見て取れよう。

(2)イブン・アラビーの重要性

次に、イブン・アラビーがイスラームの歴史のなかで、また現在のイスラーム世界においても、重要であることについて、一言しておきたい。

このことをまずは時間軸に注目しながら論じてみたい。イスラーム世界の近代がいつから始まるかという問題は、なかなか厄介であるが、思想史的にいえば、18世紀からと言ってよいであろう。アラビア半島でムハンマド・イブン・アブドゥルワッハーブ、インドでシャー・ワリーウッラー、アフリカでオスマン・ダン・フォディオらが、イスラーム改革の狼煙をあげたのが18世紀である。この中でとくにワッハーブの運動は、後のサラフィー主義者や現代の所謂「イスラム原理主義者」にも大きな影響を与えていると言われるが、彼らが精神的な先達と仰ぐのが、13-14世紀のイブン・タイミーヤである。彼は、イブン・アラビー流の哲学的神秘主義や聖者崇拝を、多神教的異端として斥ける。アッラーという神の絶対的超越性と、アッラーの命令たるシャリーアの実践を彼は強く訴える。イスラーム世界の近現代は、このイブン・タイミーヤ流のイスラーム理解が主流になっているかのようにも見える。これに対して、前近代のイスラーム世界の思想的バックボーンをなしていたのがイブン・アラビーであったと言っても過言ではない。

しかし、「前近代イスラーム世界の思潮がイブン・アラビー中心、近現代がイブン・タイミーヤ中心」という風に言うのもまた安易に過ぎよう。

第一に、近現代においても、イブン・アラビーの影響下にある人々は多数存在・活躍しているのであって、たとえばアルジェリアにあって反仏闘争の先頭に立ったアミール・アブドゥルカーディル・ジャザーイリーや、イラン革命を遂行したホメイニーは、同時にイブン・アラビーの思想に深く親しんでいた。ここで、それは社会運動を起こした人がたまたまイブン・アラビーの思想を愛好していただけであって、思想と運動との間には直接の関係はなかろうと考えるのは、的を射ていまい。そのことは、ホメイニーが当時のソビエト連邦の書記長ゴルバチョフに、イスラーム世界を理解するためには、イブン・アラビーやイブン・スィーナーの思想を理解することが重要だという旨の書簡を送ったという一事に端的に現れている[2]。ホメイニーの中では、その革命とイブン・アラビーの思想は通底するものがあったのである[3]。彼らにおいては、イブン・アラビーの思想と、社会変革実践活動は深く結びついていたと考えなければならない。

また、イブン・アラビーの主著『メッカ啓示』の出版差し止めをめぐる係争がエジプトで起こっていることも、彼の影響力が現代でも大きいことの証左となろう。今世紀初頭には、ムハンマド・アブドゥが同書を発禁処分にしたし、1979年には人民議会において、やはり同書の発禁処分が論ぜられた[4]

第二に、イブン・アラビーからイブン・タイミーヤに思想的根幹が変わるというのは、ごくおおざっぱに言うにせよ、スンナ派世界にしかなりたたないことを指摘しておきたい。12イマーム派においてイブン・アラビーの影響力が現代に至ってもなお強いことは、上のホメイニーの例で明らかであろう。イスマーイール派ではこの傾向はさらに強いと言わねばならず、イブン・アラビーの思想は一貫してイスマーイール派の思想のバックボーンをなしていると言われるほどである[5]

ここまで時間軸を元にイブン・アラビーの重要性を論じてきた。次に、空間軸を元に――すなわち地域に着目して――このことを瞥見しておきたい。イスラーム世界は、七世紀以降領土的に拡大し続けたあと、いったんその拡張をやめ、十三世紀には逆にモンゴルによって侵略されるに至ったが、この危機を乗り切った後、再び拡大に転ずることとなった。東南アジアやサハラ以南アフリカなどにイスラーム世界は広がっていくことになる。この時の拡大は、七世紀以降のように武力によるものでなく、商人などの平和的布教活動によるもので、その際にスーフィーの力の与るところ大きいものがあったと言われている。すなわち、これらの地域に到達したイスラームには、最初からスーフィズムが織り込まれていたのであり、その少なからぬ場合において、イブン・アラビーの思想もともに伝えられたのである。上にあげたような地域を含め、イスラーム世界各地にイブン・アラビーの影響が見出せることは、その証拠といえるであろう。イブン・アラビーの形而上学が、たとえばヒンドゥー教や仏教の世界観を持っていた南アジアや東南アジア地域の知識人たちに近しく、受け入れやすいものであり、そのことがこの地域のイスラーム受容を容易ならしめたであろうことは想像に難くない。

(3)イブン・アラビー研究の新しい動向

では、このように重要なイブン・アラビーについて、どのような研究がなされてきたかを次に述べてみたいが、そのすべてを網羅するには、紙幅が足りないし、この序文の主旨をも越えている。したがってここでは、イブン・アラビーの多様な側面を描き出そうとする新しい研究の方向性について一言するにとどめたい。

イブン・アラビーが類い稀なる神秘家であることは、広く認められてきたことであって、従来の研究も、彼の神秘主義思想の分析に力点が置かれてきた。この側面はイブン・アラビー研究の最も重要なものであり、今後ともその中心をなすものと考えるべきであろう。しかしながら、最近はイブン・アラビーの他の側面にも光をあてようとする研究、言い換えれば彼の多様な顔を明らかにしようとするものが出てきている。

その一つは、イスラームの思想を内外に分けた場合に、もっぱら内的な側面のみが検討されてきたイブン・アラビーにおいて、外的側面を見ようとするものである。具体的には法学の専門家としてのイブン・アラビー像を、テキストをもとに明らかにしてみせるというものであり、E. Winkelの著作などはその一例である[6]。彼がザーヒル法学派の一権威であったという事実は従来から知られていたものの、具体的な記述を彼のテキストから読み解こうとする研究が進んできたのである。それにしてもこの側面は、より包括的にとらえようとしているにせよ、依然イブン・アラビー自身の思想を対象にしているのである。

これに対して、断然イブン・アラビー自身を離れ、また思想レベル・形而上レベルを離れていこうとするのが、第二の方向性である。それは、民衆の間の聖者としてのアラビー像の研究であり、イブン・アラビー自身でなく、周囲の、あるいは後代の人々が彼に期待したもの、その願望の結晶としてのイブン・アラビー像が研究対象となる。また、形而上レベルの話ではなく、実際に聖者としてのイブン・アラビー廟に詣でる民衆の行動をとらえていかなければならないということになる。これはおそらく思想研究の枠組みを越えたものである。この種の試みは、たとえばR. Atlaghによって試みられているが、まだ十分成功していないといってよい[7]

この第二の点に関連するのが、イブン・アラビーをめぐる論争史の研究という第三の方向性である。これは、次に述べるイブン・アラビーの後代への影響の研究と考えることも可能であるが、どのようなイブン・アラビー像を描くのかということと密接に関係するので、ここで述べておく。彼は、毀誉褒貶にさらされた、いい意味でも悪い意味でも有名人であった。それゆえ、彼に対する評価は、時間と空間に応じて天から地へ、奥義を究めつくした聖者というイメージから、大ほら吹きの背教者というイメージまでの開きを持っている。長い論争史があることは、O. Yahiaがすでに指摘しているし、私自身、日本語ではあるが、イブン・タイミーヤやビカーイーによるマムルーク朝期のイブン・アラビー(学派)批判について論じたことがある[8]。しかし、現在のところ、この分野における最も概括的な研究は、A. Knyshのものであろう[9]。これは基本的には、知識人レベルの論争を克明にたどったものであるが、しかしそこに為政者の政策や当時の時代状況がからんでくるところに特徴がある。したがってそのアプローチは思想研究というよりは、歴史学である。

2.イブン・アラビー学派

(1)イブン・アラビー学派研究史の概略[10]

さて、イブン・アラビーのテキストそのものが時に非常に難解であるせいもあって、彼の信奉者たちによる注釈は、長らく彼の思想を理解するための道具として用いられてきた。しかし、注釈というのが、正統性や権威を確保したうえで、独自の思想を展開するための一つのスタイルになりうることは言うまでもない。仏教の場合など、経に対する注・疏という形の注釈がほとんど唯一の思想書の形態と言ってよいぐらいである。

そこで、この注釈者たちの著作を、イブン・アラビー思想の理解のためではなくて、むしろ注釈を施した個々の「思想家」自身の思想を理解するために読み込もうとする方向性が出てくる。

ほんの数十年ほど前には、十二世紀でイスラーム思想の繁栄は終わりを告げ、以降は爛惰の時代に入ったと言われたものである[11]。これに対して、十三世紀以降のシーア派、とくにイランに脈々たる思想が生き続けていることが主張された。その代表的な旗手がH. Corbinである。これによって、所謂「サファヴィー朝ルネサンス」を経て現代まで、ペリパトス哲学、イブン・アラビーの存在一性論、スフラワルディー・マクトゥールの照明哲学、12イマーム派神学などの混淆した一大思想潮流の存在が確認された。

これに対して、スンナ派世界における後代の思想の発展に関する研究は立ち後れたと言えよう。オスマン朝やアラブ世界、中国などにおける13世紀以降の思想の展開について、真剣な検討がなされるようになったのは高々ここ二、三十年である。

上述の研究動向は、イスラーム思想は12世紀で生命力を失ったのではなく、それ以降にもそれを育み、新しいものを生み出し続けたという主張に基づくものであったが、ここでもこのような形而上レベルでなく、むしろ民衆レベルに焦点を合わせようという方向性が九十年代に出てくる。思想的に言えば二流のパンフレット類を用いて、イブン・アラビーの影響の広がりを考えようとしたM. Chodkiewiczの研究などにその例を見ることができる[12]。しかし、この研究にしても依然、文字化されたテキストを用いて研究しているわけで、完全にilliterateな民衆への広がりをとらえることはなかなか難しいと言わなければならない。

以上をまとめると、形而上学レベルと民衆レベルの区分でいえば、前者の検討が圧倒的に先行しており、後者の試みはまだ端緒についたばかりと言ってよい。また、時代的な差異・地域的な差異はまだ十分に検討されていないが、地域的な広がりは注目され、これまで手薄であった地域における学派の研究が進んできていると言えよう[13]

この目録は、各地に展開した学派の著作を一堂に会させて、将来的にイブン・アラビーの影響を比較的に論じるための基礎的データを提供することを企図している。ことに、アラブ・ペルシアのみならず、オスマン朝や南アジア、東南アジア、中国まで含めることができる段階まで来たことが現時点の特徴といえるであろう。もっとも、文献目録という性格から、上述してきた民衆的広がりといった側面が漏れてしまうのはいたしかたのないことである。

さて私がここで「地域」という場合には、専ら文化的地域を考えているのである。前近代にはこのような文化的地域は相当の実体性を持っていたと思う。それは、戦後の地域研究で中心となってきた戦略的地域とは別種のものである。

文化的地域というのは、共通の学術語を持っている地域の謂である。学術語が同じということは、古典を共有するということである。アラビア語はイスラーム世界の共通語と言ってよいが、それ以外にペルシア語、トルコ語、ウルドゥー語、マレー語などが、順次、思想表現の手段として採用され、文化的地域を形作ってきたのである[14]

今ひとつ、文化的地域を考える際に重要なのは、宗教思想である。南アジアのヒンドゥイズム・ヴェーダーンタ哲学、東南アジアのヒンドゥイズム・上座部仏教、中国の儒教・道教・大乗仏教などは、それぞれの地域の知の体系を担ってきたと言えるであろう。このような要素との関係を抜きにして、イスラーム思想やイブン・アラビー思想の流入を論ずることはできないだろう。

(2)イブン・アラビー学派とは

ところで、ここまで私は「イブン・アラビー学派」という言葉を、自明のもののように用いてきたが、実はこの概念にはなかなか厄介なものがあると言わねばならない。

すでにJ. Morrisが的確に指摘したとおり、「学派」という言葉を用いる際には、よほど注意を払わなければならない。その理由は、1.成員の哲学的・神学的一体性・多様性の検討がまだ始まっていない、2.彼らはただに「注釈者」であるだけでなく、独立した思想家である、という点にある[15]

いわゆる「イブン・アラビー学派」の整理の仕方は、これまで幾通りか出されているが、W. Chittickによれば、次のように分けて考えることができる。1)クーナウィーとそのサークル、2)イブン・アラビーの主著『叡智の台座』の注釈者たち、3)スィルスィラ(系譜)でアラビーに連なる人たち、4)知的に影響下にある人たち[16]。このうち1)~3)はほぼ一意的にその範囲を定めることができるが、4)に誰を入れるか、その判断基準が何か、について未だ統一見解のないところが、アラビー学派の定義や範囲の不明確さを生む原因となっているのである。

たとえば南アジアの「イブン・アラビー学派」の人々についてChittickが述べるところでは、「イブン・アラビー自身の著作に通じていた人は少なく、ファルガーニージャーミーの著作からの影響が大きい」という[17]。中国でも同様のことが言えるのであり、ナジュムッディーン・ラーズィーもジャーミーと並んで影響が大きい。こういった、イブン・アラビー自身の著作を読まず、言ってみれば、間接的な影響下にある人々を「イブン・アラビー学派」に含めて考えてよいかどうかは難しい問題である。「イブン・アラビー学派」に代えて、「存在一性論学派」という呼称を用いる研究者がいるのは、この理由によるものと思われる。たとえイブン・アラビー自身の著作に親しんでいないにしても、彼に始まる「存在一性論」の術語や概念を用いて自らの議論を組みたてていることが、見てとれるからである。また、アウハドゥッディーン・バルヤーニーイブン・サブイーンらを「学派」に含めて考えるかどうかは、結局のところ、学派をどう定義するかにかかってくるであろう[18]

また、アラーウッダウラ・スィムナーニーアフマド・スィルヒンディーラーニーリーのように、これまでイブン・アラビー思想への批判者と見られてきた人々をどう評価するかも、困難な問題である。今回は、最近の研究動向を踏まえたうえで、イブン・アラビー思想もしくは存在一性論そのものへの批判よりは、むしろその改良を目指していたと評価しうる思想家については、この目録に取り込んである。もちろん、イブン・タイミーヤのようにはっきり批判・非難したとみられる人々は、学派の中に数えていない。

正直にいって、この目録作成時点において編者は、まだ「イブン・アラビー学派」という概念を定義できる段階にはない。その中心的部分は明確に見えるが、周縁部はその他の思想潮流とグラデーションのようにつながりあい、その境界線を引くことは極めて難しい。ここでは、将来的な研究の裾野を広げる目的で、たとえ影響が間接的で、必ずしもイブン・アラビーまで遡及して参照していなくても、イブン・アラビーの影響下にあると考えられる人を、広く含めておきたい。その意味では、何か実体を持ったものを想起させる「学派」ということばを用いるよりは、もう少し漠然と潮流を表すような意味合いで、Akbarian traditionと呼ぶこともできるかもしれない[19]

脚注

  1. Osman Yahia, Histoire et classification de l’œuvere d’Ibn Arabi, 2 vols., Damas, 1964.
  2. Elizabeth Sirriyeh, Sufis and Anti-Sufis, Richmond, Surrey, 1999, p. 146.
  3. 松本耿郎『イスラーム政治神学――ワラーヤとウィラーヤ』未来社, 1993.
  4. 以下参照。
    • E. Sirriyeh, Sufis and Anti-Sufis, p. 97;
    • T. E. Homerin, “Ibn Arabi in the People’s Assembly: Religion, Press, and Politics in Sadat’s Egypt,” Middle East Journal, 40, 1986, pp. 462–477.
  5. Seyyed Hossein Nasr, “Seventh-century Sufism and the School of Ibn ‘Arabȋ,” in Sufi Essays, London, 1972, pp. 97–103.
  6. Eric Winkel (tr.), Mysteries of Purity: Ibn al-Arabī’s asrār al-ṭahārah, Notre Dam, Indiana, 1995.
  7. Ryad Atlagh, “Paradoxes of a Mausoleum,” Journal of the Muhyiddin Ibn ‘Arabi Society, 22 (1997), pp. 1–24.
  8. 以下参照。
    • Osman Yahia, Histoire et classification;
    • 東長靖「マムルーク朝末期におけるタサウウフをめぐる論争」『イスラム世界』33/34, 1990, pp. 51-72;
    • 東長靖「マムルーク朝期のタサウウフの位置をめぐる一考察――イブン・タイミーヤの神秘主義哲学批判を中心として――」『オリエント』33-1, 1990, pp. 64–79.
  9. Alexandre Knysh, Ibn ‘Arabi in the Later Islamic Tradition: The Making of a Polemical Image in Medieval Islam, Albany: State University of New York Press, 1999.
  10. 学派の全体像を示そうとしたものに、
    • H. Z. Ülken, La Pensee de l'Islam, tr. G. Dubois et al., Istanbul, 1953, pp. 258–265;
    • S. H. Nasr, “Seventh-Century Sufism”;
    • William C. Chittick, “Ibn ‘Arabī and His School,” in S. H. Nasr (ed.), Islamic Spirituality: Manifestations, New York, 1991, pp. 49–79;
    • do., “The School of Ibn ‘Arabī,” in S. H. Nasr and O. Leaman (eds.), History of Islamic Philosophy, vol. 1, London; New York, 1996, pp. 510–523.
    があり、全体像ではないが、広く学派について論じたものとして、
    • James Morris, “Ibn ‘Arabi and his Interpreters, Part 1: Recent French Translations,” Journal of the American Oriental Society, 106-3, 1986, pp. 539–551;
    • do., “Ibn ‘Arabi and his Interpreters, Part 2: Influences and Interpretations,” Journal of the American Oriental Society, 106-4, 1986, pp. 733–756;
    • do., “Ibn ‘Arabi and his Interpreters, Part 2 (Coclusion): Influences and Interpretations,” Journal of the American Oriental Society, 107-1, 1987, pp. 101–119;
    • M. Chodkiewicz, “The Diffusion of Ibn ‘Arabi’s Doctrine,” Journal of the Muhyiddin Ibn ‘Arabi Society, vol. 9, 1991, pp. 36–57.
    がある。
  11. Arthur J. Arberry, Sufism: An Account of the Mystics of Islam, 1950; repr. London, 1979, ch. 11.
  12. Chodkiewicz, “The Diffusion.”
  13. Morrisは、1986–87年時点では、イランの後代の発展はコルバンにより明らかにされたが、オスマン領域・ムガル・中央アジアでの発展は手つかずのままだと指摘している(Morris, “Ibn ‘Arabi and His Interpreters, Part 2,” p. 734)。
  14. 日本は江戸時代までは明らかに漢字(中国)文化圏の一翼を担いえた。しかし明治以降、漢文の読み書き能力が衰え、中国文化圏を主体的に担いうる存在ではなくなった。
  15. Morris, “Ibn ‘Arabi and His Interpreters, Part 2,” pp. 751–752.
  16. 以下参照。
    • Chittick, “Ibn ‘Arabī and his School”;
    • do., “The School of Ibn ‘Arabī.”
    他方、Nasr, “Seventh-Century Sufism” は、シーア派/イランに焦点を合わせた整理をしている。それによれば、1)スーフィー(多くはペルシア語使用者)、2)シーア派神学者(Chittickでは4)に入れられる)、3)注釈者たち、となっている。
  17. William C. Chittick, “Note on Ibn al-‘Arabī’s Influence in the Subcontinent,” The Muslim World, 82-3/4, 1992.
  18. バルヤーニーについては、
    • Chittick, “Ibn ‘Arabī and his School,” p. 54;
    • do., “The School of Ibn ‘Arabī,” p. 519.
    を、またwaḥda al-wujūdの定義については、
    • William C. Chittick, “Rūmī and Waḥdat al-Wujūd,” in Amin Banani, Richard Hovannisian and Georges Sabagh (eds.), Poetry and Mysticism in Islam, New York, 1994, pp. 70–111.
    を、それぞれ参照のこと。
  19. Akbarianという表現は、イブン・アラビーが「最大の師」(al-Shaykh al-akbar)と呼ばれることに基づいている。